鬱に悩まされる日々。
早速悪い癖が出ました。その名も三日坊主。
書きたい事は山ほどあるのですが、近頃鬱の症状が酷いようです 。
私が悩まされている症状は主に動悸。これについてはお医者様にも何度も相談しているのですが、なかなか改善策が出ず……とても難しいです。動悸というか胸騒ぎというか、ずっとそんな状態が続いて、とにかく苦しいんです。
一応コントミンというお薬を処方して貰っているのですが、相性が合わないようで。酷い鼻詰まりと眠気に襲われて、毎日起き上がることすらままならない日々を送ってます。
面接やオーディション、お稽古とパワフルに頑張っていた時期の私はどこへ言ったのか……見る影もありません。
「何も出来ない」という焦燥感がより私の動悸を酷いものとしているのでしょうか。コントミンは思考能力がガタ落ちするので出来れば服用したくありませんが、動悸が苦しくて飲んでしまいます。しかし、コントミンを飲んだからと言って動悸が治まるかどうかと言われるとそうでもなく……この胸騒ぎのような動悸は本当に辛いです。まず深呼吸、を心掛けていますが症状は改善されません。
これからの目標のためにも頑張らなければならないのに。
アイドルを目指し続けながら、創作活動に勤しみ、ちゃんとしたバイトを探す。早く鬱から少しでも抜け出して、頑張らなければなりません。
私はレズなのか?セクシャリティの定義【LGBT】
私がLGBTの世界に足を踏み入れたのは16歳の時です。それまでは男の子が好きで、女の子ともそう言うことを考えられなくはないけれど特別意識した事もありませんでした。
16歳の時ネットで知り合った女性を好きになりました。それからは自然と女性を恋愛対象として意識してしまう事が増え、なんだかんだと今に至ります。
今日はセクシャリティの定義について、個人的な意見を書いていきたいと思います。
前述の通り、私は16歳の時まで女性を好きになった事がありません。でも「ノンケ(異性愛者)」だったのかと言われると、頷けません。
小学生の頃、クラスで好きな男の子はいました。でも、それは漠然と「好きかも?」と思う程度の好意。男子に対する恋心よりも、私は昔かしら同性の友達に対する独占欲や執着の方が異様でした。
大好きな友達って、いつも一人なんです。その子以外は普通程度の気持ちしかありませんでした。
でもその子が自分から離れて行動するのが絶対に嫌でした。登下校も昼休みも放課後もずっと一緒にいたい。私を置いてけぼりにして他の子と遊ぶなんてもっての他です。委員会や掃除当番も必ず一緒になりたかったです、私以外の子と組もうものなら嫉妬で涙が出るほど。とにかく出来れば二人きりでいたかった。
大好きな友達から、好きな男の子の話を聞くとなんとなく複雑でした。胸が痛むような、必死にこっちを見て欲しくて沢山特別アピールをしたと思います。
それが16歳までのお話です。今思うと、思春期とはいえ少し度が行き過ぎていますよね。もしかしたらその時の私にそういった概念がなかっただけで、私は彼女のことが恋愛的に好きだったのかもしれません。
死語かもしれませんが「なんちゃってビアン」という言葉があります。その名の通り、自分をレズビアンだと思い込んで女の子と付き合ったり、ファッション的にレズビアンを騙る子たちのことです。
私は「なんちゃってビアン」なのかな、と悩んだ時期もありました。
16歳まで、本気で男の子を好きになったことはありませんでした。それから16歳になって初めて、辛くなったり泣いたりするほど女性に恋をしました。
でもそのあと、19歳くらいの頃に私はちゃんと男の人も好きになっているんですよね。女の子に何度か恋はしてきたけど、「ほんとは気のせいだったのかな」「好きだと思い込んでいただけなのかな」だとか思ったり。
色々悩んだ結果、私は今「バイ」を名乗っています。
男も女も恋愛対象です。でも男の人は少し苦手意識があるので、女の子の方が好きになる確率が高い。
「ビアン」の方は「バイ」を嫌います。それは何故なのか、理由は明白です。バイと恋愛をすると、最終的に男の人と結婚しちゃったりするんですよね。バイと恋愛したばっかりに「結婚」「世間体」が別れの理由になることなんてよくあるお話です。これについてはまた別記事で詳しく書きたいです。
嫌われ易いので、私は「ビアン」と自称する事が多いです。事実はバイなのだろうけど、やはり出会いの幅がとんでもなく少なくなってしまうので。それだけ「バイセクシャル」はビアンの世界から嫌われます。
話が逸れましたが、結局セクシャリティなんて自分が「一番近い」と思ったところに属すればいいと思うんです。他人に決められるものでもなければ、診断されるものでもありません。曖昧なら曖昧でいいと思います。ただ「曖昧」を嫌煙する人は沢山いると思いますが。
感情表現は難しい。
宮城にいる中で感じた事、触れた事、書きたいなと思った事は沢山あるのですが、なんだか少し頭がごちゃごちゃとしていて今はまだ振り返る気持ちになれません。
このブログは「死ぬまでに少しでも記録を残そう」とつけ始めた訳なのですが、やはり生きていて死期の迫りを感じます。
人との関わりってとても難しいです。自分の取ってほんの些細な事だと思っていたようなことで相手を怒らせたり、なかなか謝る勇気が出なくて事が余計に拗れたり。22歳にもなって大人気ない、と思うのですがこればかりは直せていける気もしません。上手く付き合っていくしかなさそうです。
人によく「感情表現が薄い」と言われます。家族にさえもとてもよく言われます。
感情がないわけではないんですよね、むしろ感情の波は激しい方だと思います。嬉しいことは嬉しいし、悲しいことは悲しい。でも体質なのか、何故か顔や言動に出ないんです。
小さい頃は「笑わない子供だった」と家族によく言われるので、先天的なものなのでしょう。そんな私が最近言われた言葉はこれです。
「わざとらしい笑い方するよね」
これを言われた時「あー、そう思わせてるのかあ」って思いました。多分、感情表現を自然にする事が出来ないので、いつの間にか人工的な感情表現をするようになったんだと思います。決して楽しくないからわざとらしい笑い方をしているわけじゃないんです。感情はあるのに、心から楽しいのに自然と笑う事が出来ないから、人工的に作った笑いで代用しているだけなんです。でも、相手からすると「わざとらしい笑い方をしてる……無理に笑ってるのかな?」と思われてしまうらしい。
私にとって「わざとらしい感情表現」は「入れ歯」のようなものです。歯がなくて物が食べられない、でも食べたい、だから入れ歯で代用する。
笑いたい。でも自然と笑う事が出来ない。だから笑った演技で代用する。難しいお話です。
それで相手に「面白くないなら無理に笑わなくていいよ」と言われるんだからまた複雑ですよね。面白いと思った気持ちを表現したいから笑う演技をしているのに、相手からすれば面白くないから笑う演技をしているように感じるわけです。後者の方が普通の人間の感覚なんですがね。つくづく、社会不適合な人間だなーと思います。
これについては一生背負わなければならない課題だと思います。感情は確かに存在するんですがね。